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  • 真幸 若山

鬼滅1~3巻より

皆様にはコロナ禍において日々の生活お疲れ様でございます。

今回は鬼滅の刃の1~3巻の中から学んでいきたいと思います。 時は大正時代 主人公の竈門炭治郎は雪深い山の中で今は亡き父親を含め8人家族の6人兄妹の長男で炭を売りながら貧しくも幸せを感じられる生活を送っていました。 ある時、村で炭を売り家に帰ると鬼に家族が殺されていました。唯一生き残った妹の禰豆子も鬼となってしまいます。 ここから禰豆子を鬼から治す方法を探しに炭治郎の旅が始まります。 漫画を読み始めてまもなくの場面で、鬼になった禰豆子を殺そうとする冨岡義勇は「生殺与奪の権を他人に握らせるな」、「鬼共がお前の意志や願いを尊重してくれると思うなよ」等と家族を殺されたばかりの炭治郎に厳しい言葉を使います。炭治郎の気持ちを考えると思いやりのない言葉に聞こえますが、そうではありません。 「生殺与奪の権(権利)」は他人を生かすか殺すかを選択できる権利のことです。 義勇は炭治郎のつらさを理解した上で奮起させるためにあえて強い言葉を使っています。 「生殺与奪の権」、他の命を生かすか殺すか、直接的か間接的か、私たちの日常においても常に命が隣り合わせであることを忘れてはいけません。 ご飯を食べる時に「いただきます、ごちそうさまでした」、この命にたいする感謝の言葉も失われつつあります。 一昔前の日本では米粒1粒でも命があるからテーブルにこぼしても拾って食べなさいと小さい頃から教わりました。しかし現在では汚いから食べてはいけません、と教えます。食べるものが満足にない時代にはトイレに落ちている米粒を拾って食べた、という話もあります。 また好き嫌いを言えば食べなくていい、と言われた時代もありますが、現在では嫌いだからと平気で残すことをします。 ひとえに命の大切さ、また感謝が薄れてきているから食事ひとつをとっても、この様に変化しているのではないでしょうか。 生殺与奪の権、私たち一人ひとりが常に人の命に限らず、ありとあらゆる他の命を握って生きている、生かされていることを忘れてはいけません。 炭治郎が鬼殺隊隊士の最終選抜試験中に鬼を殺しますが、その鬼にたいして「成仏してください」と手を合わせます。またこの試験中に特に強い鬼を殺した時にその手を握り「神様どうかこの人が今度生まれてくる時は鬼になんてなりませんように」と祈ります。 炭治郎は憎しみだけで鬼を殺すのではなく慈悲の心で接していることが分かります。また鬼のことを鬼とは言わずに「人」と言っているところも仏様のような心もちでいることが分かります。 炭治郎は鬼との戦いの中でどれだけ追い込まれても決してあきらめません。ある戦いの中では「頑張れ炭治郎頑張れ。俺は今までよくやってきた。俺はできる奴だ」と己を鼓舞します。 自分のしてきたことをしっかりと認めて自信に繋げます。仏教でも自分のことを大袈裟にみせたり卑下してみせたりすることは、よくないとします。自分のことを伝える時には、ありのままに伝えることが大事です。炭治郎も自分が努力してきたことをそのまま言葉にして、それを力に変換しているわけです。 「あきらめたらそこで終わり」という言葉がありますが、実際自分のことになるとあきらめたくなる事があるかと思います。そこで踏ん張るかあきらめるかで結果はもちろんのこと、その後のことまで大きく変わってきます。頑張りすぎて疲れてしまい精神を患ってしまっては元も子もないですが、自分にとってきつい時ほど後の成長に繋がります。鬼滅の刃、全話をとおして炭治郎の成長にそのことがみられると思います。 お読み下さりありがとうございました。 次回は4巻~で、6月予定になります。 引き続きお読みいただければ、ありがたく思います。



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